[第3話]不安の向こう側
コロの付いたベッドから通常のベッドへは、看護士さん二人がかりでコウタを抱えて寝かせた。その間、コウタがあまりにも痛そうなので見ていられず、嫁さんと二人で病室の外へ出て作業が終わるのを待っていた。
なんとかベッドに横たわると、
「あー腹減った!」
緊張感が張りつめた空気が一瞬和む。
特別お腹がすいていたわけではない。
ずっと不安そうな嫁さんに気遣った、コウタなりの優しさだった。
ただ、実際に一番不安なのはコウタ自身。
これから人生初の手術台にあがる。
不安でないはずがない。
ただそんな弱音、嫁さんの前で言えるはずがなかった。
「テレビ見るのにカードが必要だから、ちょっと買ってきて」
コウタは嫁さんに頼んだ。
嫁さんが病室を出たのを確認すると、コウタが話しを切り出した。
「今度の試合までに怪我なおるかねえ?」
今度の試合とは9月5日の5年生大会のこと。間に合うはずがない。そんなことは本人もわかっている。
たぶん、「無理に決まってんじゃん!」と明るくツッコんで欲しかったのかもしれない。
しかしながら、
「ちょっと間に合わないかな?」
まともに答えてしまった…
(不安なのを悟られたか!?)
ずっと不安な気持ちを押し殺していた。
悟られまいとできるだけ明るく装ってきたが、
二人きりになっての会話の中では、もはや不安感を隠すことができなくなっていた。
慌てて言葉を探す。
「え~と、手術がんばってよ!」
「痛いかねえ?」
まともに答えたことでコウタを不安がらせてしまったかもしれないが、やっと本音を話し出す。
コウタは、心配をかけさせてしまったという罪悪感と、手術に対する不安感が入り乱れていた。
「お父さんはね、始めて手術したのは3歳の時だって。覚えてないけどね。」
小さい頃体が弱く、頻繁に病院通いしていた。
手術したのも1回や2回ではない。
今は健康そのものだが、小学生の間は学校が終わると、母親の運転で何らかの病院へ。
そんな小学校時代の話をコウタにした。
「お父さんも手術したことあるんだね。じゃあ、オレも頑張る」
少しは不安を解消できたように思え、少しホッとした。
程なくして看護士さんが手術の準備にやってきた。
まず点滴を手術用に交換。針を1回抜いて、別の針を入れ直す。最初からその針を入れておいてくれればいいと思うのだが、そこは大病院。部署が変わればやり方も変わる。もちろん針も変わる。続いて熱を測る。業務用のため、数十秒で熱が測れた。そして血圧。両腕が包帯でグルグル巻きのため、足で測っていた。
「手術前にトイレに行きましょうねえ。車椅子持ってくるからちょっと待っててねえ」
車椅子を持ってこようとする看護士さんにコウタがはっきりした口調で話かけた。
「足は折れてないんですよね。なら自分で歩けます!」
看護士さんも、嫁さんも、その場にいた人全てが「キョトン」となった。
数時間前に事故に遭い、ついさっきまで折れている疑いすらあったのに、もう自分で歩くと言っている。その足はいたるところが青く腫れあがり、皮がめくれているのに自分で歩くと言っている。
なぜこんなこと言ったのかは分からない。心配をかけさせたくなかったのは、はたまた別の理由なのか。
とにかくコウタは、ゆっくりと歩いてトイレへ向かった。
用を足す際には、両手が使えない状態なので嫁さんが手伝った。
おしっこの最中、病院服(ちゃんと名称があると思いますが、浴衣みたいなヤツ)が濡れないように嫁さんが服の裾を持っている時に、
「心配かけてゴメンね…」
コウタが嫁さんに言ったらしい。
小学5年生の時に親にこんなことを言えただろうか?
小学5年生でこれから手術という時にこんなに人に気を使えただろうか?
19時30分頃。
看護士さんが呼びにきた。
いよいよ手術の時間だ。
コウタにも緊張の色が伺える。
「ピッチャーやらなきゃならないんだから、ちゃっちゃと手術してこい!」
コウタに声を掛けた。
「わかった!いってくる!」
さっきまでの緊張に満ちた顔ではなく、晴れやかな顔になった。
コウタはこういう言葉を、この言葉をかけて欲しくて二人になる時間をつくったのかもしれない。
コウタの返答を聞いて、そう感じた。
思えば子供には多くのことを望んでいたわけではなかった。ただ前向きに、常にプラス思考で生きて欲しかった。そういう人間になって欲しかった。それがいつしか多くを望むようになり、他人と比べるようになっていた。誰の言葉か知らないが、好きな言葉に“試練はそれを乗り越えられる人にしか降りかからない”というのがある。まさに今だ。これを乗り越えられれば、コウタは他人とは違う“何か”を得られるはずだし、我々はもう少しマシな親になれるかもしれない…
再びコロの付いたベッドで地下の手術室へ。今度は自分で乗った。
「手術はだいたい1時間半くらいで終わります」
看護士さんから説明があった。
「お父さんはお帰りください。お母さんに付き添いいただきます」
大体の場合、こういう時に父親はアテにされない。
コウタの状況報告を嫁さんに託し、娘が待つ家へと一人帰ることになった。