部活の制度改革
について考える。
先日、ネットで面白い記事を見つけた。
まあ、部活についての記事なのだが。
特に興味を引かれたのが、「部活は生徒指導の生命線」というフレーズ。
「部活動における態度指導が、学校の安定に大きな貢献をしている」のだという。
確かに、自身の経験に置き換えれば、担任の先生よりも部活顧問の先生の方を信頼していたし、言うことを聞いたような気がする。
子どもにとって、部活顧問の先生の影響力は非常に大きい。
そして、この効果によって、「学校は安定する」のだという。
現在、文部科学省が進めているのは、教員の部活負担の軽減。部活の週休2日制や活動時間の制限、外部指導員への委託、さらにはクラブチームへの譲渡など、さまざまな措置が講じられ、実施され始めている。
ここ浜松の近隣市町村では、「部活動はスポーツを楽しむ場所。トップアスリートを目指す選手は、部活ではなく、クラブチームへの入団を勧める」というところもある。教員の負担は確かに減るだろう。しかし、学校の安定、学校の秩序という部分では大いに不安が残る。「部活は学校の存在意義の根幹。部活を手放すということは、学校の存在意義の根本的な再定義をしなければならない」ということらしい。
親からすれば、部活に対する期待は大きい。
技術レベルの向上はもちろんだが、部活を通して身に付けるであろう、協調性や継続性、人間的な成長というのは、普段の学校生活や私生活の中では身に付きづらい事柄のように思え、部活を通しての成長に期待してしまう。
部活の民間委託については、過度な勝利至上主義を招くような気がして、不安が残る。
一方で、指導者について興味深いデータがあった。
「指導者に満足しているか」という問いに対し、「はい」と答えた人は“たった”6%だったらしい。デンマークでは、「はい」と答えた人が96%だというから、日本の少なさは際立つ。
これも部活と密接な関係がある。部活がある国は基本的に日本のみ。放課後に学校でスポーツを行う国はあるが、日本のようにガッチリ取り組んでいる国はないと言っていいだろう。
とすればこの6%という数字、単に指導者に対する不満を表す数字ではない。
部活そのものに対する評価ではないだろうか。部活に大きな期待を寄せる親、部活に入ることを強制される子ども、渋々顧問をやらざるを得なくなった先生、そして部活を存在意義と位置づける学校、それら全てに対する不満が鬱積した数字なのだろう。
部活やクラブを形成するピラミッドは、監督を頂点に、コーチなどのスタッフ、そして一番下に選手がいる。監督は選手を怒鳴り散らし服従させ、駒のように使う。結果が出たとしても全ては監督の手柄。結果が出れば自信になる選手もいるが、多くはその競技への愛情が薄れ、離れていく。
極論というのは承知だが、監督を頂点としたピラミッド構造であることは間違いない。
これこそが根本的な問題ではないだろうか。解決策としては、このピラミッドを逆転させること。選手を頂点に、スタッフ、それを監督が支えるという構造になれば、多くの問題は解決するのではないだろうか。選手が自ら考え取り組むことで「やらされている」が「やっている」に変わり、指導者のプレッシャーも大きく軽減される。何より、自立する子どもに親は目を細めるだろう。
制度改革の前に、やるべきことがあるように思うのだが。